【わたしは最悪。】レビュー

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■わたしは最悪。
監督:ヨアキム・トリアー
出演:レナーテ・レインスヴェ、アンデルシュ・ダニエルセン・リー

2021年製作/128分/ノルウェー・フランス・スウェーデン・デンマーク合作
原題:THE Worst Person In The Word
配給:ギャガ


【大人になりきれない大人に送る、赤裸々ロマンチックラブコメディ】


この作品、予告を観た時と大きく印象が変わりました。私はもっと”変わった”映画だと思っていたんですよね。


それは恐らく予告に登場する、主人公ユリア以外の時が止まったシーンを映画の世界観へと肥大化していたからなのですが、そもそもこのシーンの色合いが分かっていませんでした。


もちろん前後の文脈を省略して魅せるのが予告だと思うので、切り取られたシーンのみを観て本編への想像を膨らませるのが予告の楽しみ方だとは思いますが、

置かれた文脈によってあの印象的なシーンがより一層、こんなにも光輝いていて観えることに
驚きました。


そして鑑賞後にもう一度「わたしは最悪。」のタイトルを見ると、なるほどこの作品のキャッチコピーが【”最悪”な本音が”最高”の共感を呼ぶ】になったのが分かります。



◆ストーリー
30歳という節目を迎えたユリヤ。これまでもいくつもの才能を無駄にしてきた彼女は、いまだ人生の方向性が定まらずにいた。

年上の恋人アクセルはグラフィックノベル作家として成功し、最近しきりに身を固めたがっている。

ある夜、招待されていないパーティに紛れ込んだユリヤは、そこで若く魅力的なアイヴィンに出会う。

ほどなくしてアクセルと別れ、新しい恋愛に身をゆだねたユリヤは、そこに人生の新たな展望を見いだそうとするが……。



すぐに新しいものに目移りして、こらえ性がなく、天邪鬼。自分は失敗ばかりだと自己嫌悪に陥っても同じ事を繰り返す。そんな”本当の自分探し”を辞められないのがユリアです。


(もー、また?)
(ほらほら、その感じダメなんじゃないの?)
(いや、分かるよユリア?でもさぁ、、、)


なーんて心の中で思いながら、本気で人生にもがくユリアを観ていると、彼女の人間味あふれるキャラクターがどんどん好きになります。

その激しさも、弱さも、優しさも、冷たさも全てが愛おしくなる。

今までも大人になりきれない大人が主人公の映画は沢山あれど、それらの多くは男性主人公で、
こんなにも女性を赤裸々に生き生きと描いた映画はあったかな。


しかも、ユリアに共感するのはきっと女性だけではない。男性も同じです。


という事で、この映画をお薦めするのは

人生の行き先が見えなくて、大人になっても相変わらず困惑したまま彷徨い歩いていると感じる人

ある日突然、何か特別な事が起って全く別の私になれたら良いのにと願う人

何を選んでも他の選択肢が気になって腰をすえる事が出来ない人

あとは

映画が描く女性像の変化を感じたい人

カンヌ国際映画祭で女優賞に輝いたレナーテ・レインスヴェを観たい人

ノルウェーの首都オロスの美しい景色と光を堪能したい人
にもお薦めです!


とにかく予告でも使われている”世界が止まる”シーンは必見なので、是非この映画の世界観と共にお楽しみくださいね♪



☆以下内容に触れるのでご注意を☆






ユリアはとにかく落ち着きがありません。


自分でも言っているように、すぐ新しいものに目移りしてしまい、こらえ性がなく、猪突猛進。


成績優秀という理由で選んだ医学の道で身体よりも心に興味があると気づき心理学に転向。

詰め込み教育にウンザリしている時に視覚の人間だと分かり写真家へ。モデルと付き合ている時にアクセルと出会い同棲を始める。

年上のアクセルから妻や母親の役割を望まれていることを感じると同世代のアイヴィンに惹かれる、、、。


そして結局アイヴィンとも上手くはいきません。


なぜユリアはこんなにも行動し続けたのでしょう?


新しい世界に飛び込み、新しい人に出会う。馴染んだ世界を捨て、情のある人を捨てる。

どれもが私たちにとってはストレスフルなのに、ユリアは立ち止まることがありません。

きっとユリアの行動原理には「幸せになりたい」という素朴で強い願いがあるのです。


”本当の自分=幸せな自分”がどこかに居るはずだと追い求めている。


”幸せな自分”に変わりたいと願っている。

その願いが叶うまでは諦めないし、立ち止まらない。その過程が映画の中に焼き付けられています。


新しい物との出会いはワクワクしてときめく瞬間です。

ユリアにとっては学びの対象を変えた時や新たな異性との出会いがそうですね。
特にアイヴィンとの出会いはロマンチックに描かれている。

知らない人の結婚パーティに潜り込んだユリアがアイヴィンと「これは浮気?浮気じゃない?」とくり返しながら
親密になっていく様子も、

本屋での再会も、時が止まった世界で走ってアイヴィンに会いに行き、走って帰るシーンも
全てがドラマチックで素敵です。

私は地位と名声と落ち着きを持っているアクセルと暮らしても結局変われない自分に対峙するしかなくウンザリしているユリアが、
若く軽やかで真面目なアイヴィンとの出会いに次の可能性を感じて高揚しているこのシーンが好きですが、同時にアクセルも十分素敵だよ?と思っている。


結局ユリアはアイヴィンとも上手く行きませんが、アイヴィンだって優しくて大らかで素敵です。


ユリアよ、何がいけないの?


と聞きたくもなりますが、ユリアにとっては何かが違う。幸せな自分が手に入らないと感じてしまいます。


映画のラストでついにユリアは写真家として生きている姿を私たちに見せてくれます。


でも彼女の隣に恋人の姿はありません。


その代わりに彼女には自分だけの仕事部屋、自分だけの空間があります。

今までの様に、ダイニングテーブルの片隅で写真を編集するわけでもなく、ベッドの上で文章を書く事もない。

彼女の為の、落ち着く居場所が確保されています。


そしてユリアにとっては決して初めての出会いではない、写真に向き合っている。


その姿を見ると、うんざりな自分を忘れるためにドーピング剤の様に自分を高揚させる新しい出会いを求めるのではなく、自分自身を変えていくことでしか”本当の自分=幸せな自分”に出会う事はできないのかもしれない、と思うのですが、

同時にドーピング剤を打ってでも、動き続ける意味を感じるのです。


だって自分を変える必要があるって気づけなきゃ、そもそも変えることなんて出来ないじゃない。


新しいものに目移りして、こらえ性が無いのはいけないこと?

石の上にも三年は真理なの?

大きな失敗は許されない?


そんなことは無いと、私は思うのです。信じられない程軽やかに、自分勝手に決断し続けるユリアは完璧な主人公ではありません。

平気で嘘を付き、相手を傷つける言葉をわざと選んでぶつけ、関係を壊してしまうユリア。

子どもを望まれた昔の恋人に、君は良い母親になれると勇気づけてもらいに行ったりもします。


そして、流産した後にはどこかホッとした表情を見せる。


完璧どころかむしろ欠落だらけなユリアですが、この矛盾だらけで凸凹なキャラクターはとても人間味が溢れていて私たちに勇気を与えてくれます。


早く安定した人生を生きなければならない。

人生の目標を定めなければならない。

失敗は許されない。

無駄な事はしたくない。


私たちを縛る思い込みは様々ですが、窮屈に感じるならそこに執着する必要もはないのだと知っていることが必要です。
私たちを縛るものは何もない。


いや、私たちを最後まで縛るのは自分です。だから自分を変える。自分を変えるために環境を変えるのであって、環境が変われば自分が変わるのではありません。


そんなこと無い、わたしは変わったよ。


そう感じる人もいるかもしれませんね。
でも環境を変えたことが原因で自分が生まれ変われるなら、うんざりな自分はどこかにいなくなってしまうはず。

ところが多くの人は新しい環境に慣れてしまえば、結局本来の自分が立ち現れてくるのです。


まずはどこかに居る本当の自分ではなく、ここに居る自分を認める。


本当の自分
=うんざりする「この」自分
=幸せを求めている、求め続けているけどどこかに不足を感じている自分

だという事。


そしてその不足分は何かが又は誰かが補ってくれるものではなく、自らが解消していくべき物だという事。


なーんだ、結局人間って孤独じゃん


と嘆きたくもなりますが、映画のラストを味わいながら、これからもきっと今まで通り行動し激しい道を歩み続けるであろうユリアの人生が今までとは少し違った色合いを持って進んで行く予感に私は大きな希望を持ちました。


突然変異は起こらない。


だからジタバタしながらゆっくり変化していく自らの人生を楽しめば良いのかもしれません。

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