【アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台】レビュー

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■アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台
監督:エマニュエル・クールコル
出演:カド・メラッド、ダビッド・アヤラ
2020年製作/105分/PG12/フランス
原題:Un triomphe


【「待つ」ことの映画】

この映画の登場人物たちは「待つ」存在です。


刑務所で演劇ワークショップの講師を務める事になった売れない役者のエチエンヌも、「ゴドーを待ちながら」を演じることになった囚人たちもただひたすらに待っています。


エチエンヌは役者としての巻き返しのチャンスを待っているし、囚人たちは自由になる日を待っている。

そして、フランスの戯曲家サミュエル・ベゲットが書いた難解な戯曲、
伝説的不条理演劇「ゴドーを待ちながら」を囚人たちが演じることになるストーリーを追っていると、実は私たちも待っている存在なのだと気づかされます。


例えば「おやすみ」と眠る瞬間を。
晴れの日を。
休日を。
楽しい瞬間を。
幸せな日々を。


そしてそれがいつなのか分からないけど、永遠に眠る日をわたし達は待っている。



この映画の宣伝文句「ラスト20分。感動で、あなたはもう席を立てない!」に騙されてはいけない、と思います。


手垢の付いたこのコピーから想像される大団円とは少し違うラストが訪れます。だって、この映画は待つ映画なのですから。



◆ストーリー


売れない俳優エチエンヌは、刑務所の囚人たちを対象とした演技ワークショップの講師を依頼される。

サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」を演目に選んだ彼は、一癖も二癖もある囚人たちに
演技を指導していく。

エチエンヌの情熱はいつしか囚人たちや刑務所管理者の心を動かし、実現は困難と
されていた刑務所外での公演にこぎつける。


彼らの舞台は予想以上の好評を呼んで再演を重ねる事になり、ついには大劇場パリ・オデオン座からの最終オファーが届く。


この映画はスウェーデンの俳優ヤン・ヨンソンが1985年に体験した実話をベースにしています。


だからこそ塀の外に出てツアーが組まれていく経緯に驚きを感じるのですが観終わるともう一度改めて実話だと言うことに驚かされます。


もちろん実際の出来事はあくまでベースなので細部(特に囚人たちの人物像など)はオリジナルだと思いますが、事実は小説より奇なりだと感じました。


そして「奇」な現実を演劇に落とし込もうとしたのが「ゴドーを待ちながら」だと思いますし、「奇」な実話を「ゴドーを待ちながら」を通して映画に落とし込もうとしたのがこの作品だと考えると、この入り組んだ構造そのものがとても面白いのです。


こう書くとまるで難解な映画の様に思えてしまうかもしれませんが、決して難解な映画ではありません。


とても分かりやすく、まっすぐな道筋で描かれている作品です。


そもそも刑務所の囚人たちを対象とした演技ワークショップがあるなんて知っていましたか?北欧発祥と言われるプログラムはフランスでも盛んに行われているようで、映画を観ていても囚人たちの変化はとても面白いのです。


映画の中では人種や年齢、犯罪歴など詳しくは描かれませんがそれぞれが背負っている背景を感じさせる囚人役のキャスティングは素晴らしいと感じました。

各キャラクターの個性が際立っていて、笑えるシーンも沢山あるんですよ。


さらに、この映画の撮影にはフランスで実際に稼働している刑務所が使われているのにも注目です。

刑務所ならではの独特な空気感、外と遮断されている出入口の厳重な作りなど、なかなか観る事のできない刑務所の姿を観る事ができるのも楽しめるポイントだと感じました。


そして、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」をよく知らないな、、、と思っている方も大丈夫。この映画を楽しむために「ゴドーを待ちながら」を前知識として持っている必要はありません。

もちろん、もし知っていれば、新たな解釈や考え方を得る機会になると思いますし、全く知らない人はこの難解演劇に興味が湧くはず。


「ゴドーを待ちながら」は難しい戯曲だと言われますが、それでもこれだけ有名なのは私たちが持っている普遍的な何かに触れているからだと思います。


だからこそ、この先も様々な芸術や娯楽で引用されるであろうこの演劇について考えるきっかけになるのかもしれない、とも感じました。


この映画の宣伝文句は「ラスト20分。感動で、あなたはもう席を立てない!」ですが、実際にラストを迎えたあなたが、この終焉をどう感じるのか。その辺りはとっても気になるところです。


個人的には、かなり力強いコピーを使ったな、、、と思うのですがご自身がどう感じるのかも楽しみに観てみてくださいね。


☆以下内容に触れるのでご注意を☆





ラストまでの20分。


物語は今までこつこつと積み上げてきた布石を抱えながら、チームをパリ・オデオン座へと連れて行きます。

エチエンヌの高揚は最高点へと駆け上がり、楽屋では渾身のハカが行われている。


さあ、あとは最高の演技を見せるのみだ!


、、、と思ってからの展開が私には意外で逃走した彼らの行動が信じられませんでした。

だって、これが最終公演でしょ?この一回くらい演じてもいいんじゃない?

私にもその価値は分からないけれどパリ・オデオン座での公演なんて偉業なのでしょう?

もしここで演じることができたら、先の人生何かが変わるかもしれないよ?

それに、逃げ切るなんて大変に決まってる。


なーんて呑気に考えてしまうのは、私が塀の外にいる自由な人間だからだと気づかされます。

「ゴドーを待ちながら」を演じていた彼らは本当に待っていました。心から自由になるその日をただひたすらに。


そんな彼らにとって「囚人」だから賞賛を浴びるのも、精神的に鎖につながれたまま塀の外と内を何度も行き来する行為も「囚人」である自分を思い知らされる体験でしか無かったのかもしれません。


難しいセリフを覚え、家族に自分の晴れ舞台を観てもらう。


彼らにとってはこれで十分だったし、それ以上の賞賛は欲しくなかった。結果的にはそんな風にも思えてします。


一方エチエンヌにとってのパリ・オデオン座は雲の上に光り輝く大舞台です。あの場所で公演できるなんて、一生に一度も巡ってくるはずのないチャンスなのです。


だからこそ彼は必死に公演成功のために奔走する。


エチエンヌと囚人たち。

全く立場の違う所から「パリ・オデオン座の最終公演」を見つめると、一方には夢の大舞台という希望に見えるし、一方には華やかな賞賛を浴びたって、やっぱり囚人である自分たちの元にゴドーは来ないのだという絶望に見える。


全く別の様そうを呈してくるのです。
開幕まであと5分。


エチエンヌは囚人たちが現れるのを心から願いますが、結局彼らはやって来ない。

エチエンヌは待っています。


そして、ついに彼はパリ・オデオン座のスポットライトを浴びながら舞台の真ん中で話し始めます。雲の上の存在でしかなかった大舞台に立つことになる。


それは、囚人たちと必死に「ゴドーを待ちながら」を演じてきたからだし、何より彼らが舞台直前に逃亡したからでもある。


必死に取り組んで、最後に裏切られたから大舞台に立ち、自分が賞賛を浴びることになる。待っていた囚人たちが現れない事で、心から待ち望んでいた大舞台を手に入れる。


こんな事ってあるの?と思ってしまいますが、あるのです。



何故なら人間は道理の通らない、不条理な人生を歩んでいるのですから。


ついに大舞台に立ったエチエンヌは恨み節を語るわけではありません。


囚人たちがどんなに真摯に演劇に取り組んだのか、「ゴドーを待ちながら」を通していかに自分を発見していったのかを語ります。

演劇に興味のない彼らを「待つ」作業がどんなに素晴らしい出来事だったのかを伝えようとする。


エチエンヌがアンコールに応え舞台に立つ直前、囚人たちのボスであるカメルから電話が来ます。

「大丈夫か?」

エチエンヌは電話を持ったまま観客たちのアプローズ(喝采)をカメルに聞かせ、カメルは逃亡中の車でこの喝采に耳を傾けます。


まさか、アプローズがこうして届けられるとは思ってもみませんでしたがカメルの心には必ずこの喝采が届いているはず。よくここまで頑張ってきた。


もちろん頑張ってきたから逃亡して良いわけではありません。


囚人たちが刑務所にいる理由は詳細に語られませんが、刑期を終えて社会に復帰するのがこの世界のルールです。


でも囚人に対する公正プログラムとして始まったこの演劇が、その軸となる目的を失って拡大していくことに、どこかの段階で疑問を持つべきだったのではないか、とも考えられるのです。


「囚人」というレッテルによって賞賛される事に疑問を持った時、自分の人間性が危うくなっていく。だからこそ、本格的に「囚人」と「囚人ではない自分」との間のズレが抱えきれなくなる前に彼らは逃亡したのではないでしょうか?


エチエンヌが体中で浴びる賞賛とカメルが耳で受け取る賞賛。


この喝采の意味は、やっぱり異なるのだろうと私には感じられました。


私がこの映画を観ようと思ったのは”囚人が「ゴドーを待ちながら」を演じる”このシチュエーションを面白いと感じたからですが、それはつまり、彼らの演劇をみて「囚人なのに凄いね」と称賛する観客と同じなのです。


私だって「囚人」の下にいる彼らの事は見えていなかった。そんな自分にも気づかされるラストでした。

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