【戦争と女の顔】レビュー

|

■「戦争と女の顔」
監督:カンテミール・バラーゴフ
出演:ヴィクトリア・ミロシニチェンコ、ヴァシリサ・ペレリギナ
2019年製作/137分/PG12/ロシア
配給:アットエンタティメント


【戦争は人間を破壊する】


この映画は戦争映画ですが、戦闘シーンは一切ありません。


でも戦争によって刻み込まれた傷や忘れる事の出来ない記憶は、爆撃や銃声を使わなくても十分に表現することができる。


いや、むしろ激しい戦闘シーンがない分じわじわと胸を締め付ける苦しさがあります。


喉に詰まった息づかい、笑顔を見せた次の瞬間に表情が消えていく様子、もう人間じゃないと嘆く言葉、虚ろになった目、コントロールの利かない身体、心の奥底を絶対に見せない言葉と表情。


この映画に登場する人々の生きる様が苦しくて、傷だらけで、途方にくれてしまいます。


しかし1991年に生まれたカンテミール・パラーゴフ監督が描く「戦争と女の顔」は、戦争を知らない私たち世代の想像力を、力強く押し広げてくれる作品でした。



■ストーリー

1945年、終戦直後のレニングラード。第二次世界大戦の独ソ戦により、街は荒廃し、市民は心身共にボロボロになっていた。

多くの傷病軍人が収容された病院で働く看護師のイーヤはPTSDを抱えながら働き、パーシュカという子どもを育てている。

しかし、後遺症のせいでその子を失ってしまった。

そこに子どもの本当の母であり、イーヤの戦友マーシャが戦場から帰ってくる。彼女もまた後遺症や戦傷を抱えていた。

イーヤとマーシャは廃墟の中で自分たちの生活を再建するための闘いに希望と意味を見出すが、、、。




戦争は、歴史で学んだ年号通りに始まり、終わるものではありません。記録上そう決まったのであって、人々の中で戦争はずっと続いていく。


この作品に対しては、いつものレビュー記事の様にお薦めしたい特定の人は思い浮かびません。少しでも関心が向いた人全ての人に是非観て欲しい。


とても重く苦しい映画ですが、私の様にロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにして、日本だっていつまでも平和が続くとは限らないと気づいた人も、


もし私たちの世代の過ちによって次世代に苦難を与えてしまったらどうしようと不安に思いながらも、絶対にそうしてはならないと心に刻んだ人にも観て欲しい。


そんな作品です。


そして最後に特記したいことが一つ。


ここまで書いてきたように戦争を題材としたこの映画には、全体的に重苦しい影が落ちています。

しかし一方で、この作品は赤と緑が印象的に、そして効果的に使われているので視覚的に感じる色彩は独特で、
温かみもあり人々の暮らしの息づかいを感じる事もできます。


当時、鮮やかな色彩を持った生活用品は女性たちの荒れ果てた心を多少なりとも癒したのかもしれない。


そんな日々の細やかさを感じるのも、女性を中心に描いた作品だからなのかもしれないと思いました。


戦闘と英雄を描く戦争映画とは全く異なる「戦争と女の顔」是非ご覧ください。



☆以下内容に触れるのでご注意を☆






人間は心と身体で出来ている。どちらか一つだけでは不十分。私たちはそんな存在です。


でも、もし心も身体も壊されてしまったら?


壊れた心と身体を抱えながら、この先を生きて行かなくてはならないなら?



「戦争と女の顔」は戦争によって破壊された身体の内にボロボロになった心を抱え、荒廃した戦後を生き続けなければならない苦しさが胸に迫る作品でした。


映画の冒頭から聞こえてくる息づかい。何だろうこの音、、、規則的?いや、苦しそうな、、、のどの奥で引っかかるような変な音。


耳をすませていると、スクリーンには主人公イーヤが映し出され、彼女がPTSD(心的外傷後ストレス)で”固まって”いるのが分かります。


次第に周囲の音が蘇り、彼女は現実に戻ってきますが、その後の彼女の様子や周囲の反応から後遺症による症状が頻繁に表れることが暗示されました。


そして、イーヤの戦友マーシャもまた、同じように後遺症を抱えているのが分かります。


彼女の顔を何度も伝う血液、そして自重を支えられずに倒れる身体。イーヤもマーシャも自分の内に戦争を抱えたままです。


「私たちは平穏な生活に向かっています」



確かにその通りでしょう。


街で銃声を聞く事も無ければ配給制とは言え、死に直面する飢餓からは遠ざかりつつある。


でもこの心と身体から離れることが出来ないのなら、いつまでも戦争は続いていくのです。だからこそ劇中では安楽死を望む戦傷者が居るし、列車に飛び込む人もいる。


彼らは決して「英雄」ではありません。


「英雄」なんて言葉で賞賛されたとて、癒される事のない絶望が彼らの内には巣くっているのです。


例え死を選ばずとも、マーシャの様に戦地にいた女性は”戦地妻”とみなされ、食べ物を与えればヤラせてくれるだなんて屈辱的な言葉を投げかけられる。それが戦後の世界でした。


戦争の歴史には、数えきれない数の傷ついた人々が隠されています。何故なら戦時中と戦後では世界観がガラリと変わってしまうから。

戦時中は善とされる事も、平時が戻ってくると手のひらを返したように後ろ指を指されてしまうなら、自分の体験したことをひた隠し、平静を装って「日常生活」に溶け込んでいくしかないのです。


イーヤが子どものパーシュカと過ごしたひと時、あの幸せな時間に彼女が笑顔を見せたのは、戦争を理解していない幼子の純粋な愛情に包まれていた安心感からではないでしょうか。


自分の過去も記憶も経験も関係なく「ママ」と求めてくれる喜びや真っすぐに見つめられる事による癒し。


イーヤはこのひと時の幸福感を知っているからマーシャへの罪の意識も深いのではないだろうかと感じました。


もしマーシャとイーヤだけで、マーシャの子どもを産むことが出来たなら二人はどんなに救われるのだろう、映画を観ながら私は何度も考えてしまいました。


イーヤとマーシャの関係性だってぎこちなく、歪んでいるし、生命誕生の仕組みから女性同士で子どもを産むなんてあり得ない。


そんな事重々分かっているのに、苦しくてどうしても二人だけの世界を望んでしまいました。



犬の様にパーシュカとじゃれあっている時のイーヤの笑顔とニコライ院長の部屋のベットでマーシャにしがみつき、泣きながら行為を受け入れるイーヤの強張った身体。


どうしても子供が欲しい、子どもは癒しと訴えるマーシャの顔。サーシャの実家でサーシャの母親に戦地での体験を奥底の感情を抑え込んで話すマーシャの鋭いまなざし。


彼女達の言動も行動も全てがいびつでぎこちなく、あまりに切なすぎます。


全てを脱ぎ捨てることが出来たなら、彼女たちは救われるのでしょうか。


脱ぎ捨てることが出来なければ救われる術はないのでしょうか。


そんなことはない。きっと続いていく人生の先に、きっと、、、。戦争という大きな波に飲み込まれた人々を想う時、私はこの「きっと」に希望を乗せる事しかできません。


そして、戦争を知らない子どもたちの為には絶対にこの黒い波を起こしてはいけない。万が一黒い波の予兆を感じた時、自分はどんな判断を下し行動が取れるのか。


それについて考え続けなければならない、そう思うのです。

コメント0

お気に入りに追加しました お気に入りから削除しました