【FLEE】作品レビュー

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■「FLEE」
監督:ヨナス・ポヘール・ラスムセン
2021年製作/89分/デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フランス合作
原題:Flee
配給:トランスフォーマー


【人生の舵を取り戻すための物語】


この物語を世界中に届けようとするならば、アニメーションドキュメンタリー映画にする以外なかった。

鑑賞後、私はそう思いました。


アフガニスタンで生まれ育ったアミンは、幼い頃に父親が当局に連行されたまま戻らず残った家族と共に命がけで祖国を脱出した。

やがて家族とも離れ離れになり、数年後たった一人でデンマークへと亡命した彼は、
30代半ばとなり研究者として成功を収め、恋人の男性と結婚を果たそうとしていた。


だが、彼には恋人にもはなしていない、20年以上抱え続けていた秘密があった。


あまりに壮絶で心揺さぶられずにはいられない過酷な半生を、親友である映画監督ヨナスの前で、彼は静かに語り始める。



アミンが語る少年期の記憶は想像を絶するほど過酷で、恐怖に支配されており、孤独です。

でも「戦争」という言葉が示すものがあまりに広義で手に余る、と感じる人には是非観て欲しい。

戦争に巻き込まれた一個人の人生に何が起こるのかを知る事ができます。そして私はアミンの苦しみは人間にとって普遍的な人生の問題につながっていると感じました。


さらにもう1点強調したいのは「FLEE」を観る事で、新しい映画のジャンルの誕生に立ち会えるという事です。

自分の人生を語るアミンの肉声にアニメーションを乗せるというアイディア、さらにそれを「ドキュメンタリー」として構成するというラスムセン監督の創造性によって「アニメーションドキュメンタリー映画」がここに誕生しています。

つまりこの作品はドキュメンタリー映画にもアニメーション映画にも新しい可能性を開いたのではないかと思うのです。

この作品によって全編アニメーションで構成されたドキュメンタリー映画の存在が証明され、今まで語る事が難しかったテーマにも挑戦する人がこの先増えるのかもしれません。


また宮崎監督や庵野監督、新海監督が作るような、空想世界を観客に「魅せる」アニメーションではなく現実を「見せすぎない」ためのアニメーション表現の方向性も示されたように感じました。

故郷からの脱出を試みる中で、アミンの人生は様々な人の人生と交差します。時に絶望し、共感し、後悔し、確かな希望を感じる。


この出来事が一体何を意味するのか。


その時観客である我々に示される事象が、例え具体的だとしても実写に比べると生々しさは抑えられ、抽象的であればあるほど想像力が必要になります。

だから何度も何度もくり返し考えることが出来る。


アミンの歩いて来た道筋を思い返すことで他者に人生の舵を奪われる意味を知り、彼がその過去を踏まえて乗り越えていく力強さに圧倒されます。




★以下内容に触れるのでご注意を★






私はてっきりアフガニスタンの内戦で難民となった青年の人生を通して、国同士の争いすなわち戦争について語られる映画なのかと思っていました。


もちろんアミンは戦争について語っています。


作品に添えられた「故郷とは、ずっといてもいい場所」このコピーは本当に重たい。


ところが亡命を試みていた時のアミンはまだ幼い少年で、世界情勢や未来の予測が立てられない状態の中毎日を過ごしています。

そうすると突然移動する日が訪れたり、家族が旅立つ日がやってくる。

しかもそれがどんな旅路なのかアミンには全く分かりません。そしてついに知らない土地でたった一人、偽りを抱えながら生きなければならない状況に追い込まれるのです。


私にとってこの映画「FLEE」は人生の真実を奪われ続けた青年が、やっとの思いで見つけた居場所を本当の意味での居場所に変えていくための物語でした。

この映画を観ると、自分を偽り続けることを強要された人は決して誰ともつながれず、安心できる居場所を獲得できないことが分かります。

自分のルーツを隠すという行為はコミュニケーションの中に大きなブラックボックスを抱える事を意味するからです。


コミュニケーションが深まるについて、相手のルーツを知りたいと思うのはとても自然な欲求ですよね。

誰もが友人の出身地や現在この場所に居る理由、恋人の家族構成や子ども時代の思い出話を聞きたいと思うはずです。


あなたのことをもっと知りたい。


コミュニケーションの源泉となるこの温かい心の動き、相手から興味を向けられるたびに触れてはならないブラックボックスが迫ってきて、言葉や態度はどんどん曖昧になる。

そんな状況ではお互いの心の内に踏み込むことは不可能です。


主人公アミンにとって、監督であり少年期からの友人であるヨナスに真実の物語を語る事は、今まで自分の中で抑圧してきた体験や心情をもう一度掘り起こし、再認識する作業だったと思います。

そうすることで「自分が何者なのか」を自らが知ることになる。それはアミンが愛する人との間に居場所を得るためにどうしても必要な工程だったのだと思うのです。


そして、この映画を観ても自分とはあまりにも状況が異なりすぎて、心を痛める事しかできない。どうする事もできない。

もしそう嘆く人が居るとするならば、アミンの少年期に心を痛めるだけではなく、自らの居場所について考えてみてはどうだろうかと思うのです。


「自分とは何者なのか」


これを語れる場所を持っていますか?

こんなことを考えるのが許されるのは、もしかしたらは明日の食べ物にも困らず、命に危険を感じない平和な国に暮らす者だけなのかもしれません。

だからこそ、今だからこそ、自分の居場所がどこにあるのか。そのしっかりとしたベース作りを怠るわけにはいきません。


もしかしたらそれは家族、友人、先輩後輩、師、コミュニティなど実際の人間関係の中にあるのかもしれない。

はたまた偉人、思想、神、宇宙という大いなる存在との対話の中にあるのかもしれません。


あなたの居場所がどこにあるにせよ、誰かの事をもっと知りたいと思うこと。そして、自分が何者であるのかを知ってもらいたいと願う事。そのコミュニケーションの中にこそ、本当の意味での多様性があるのではないか、私はそう感じるのです。


ヨナス監督が謎めいた少年アミンをそのまま受け入れ、さらには長年の信頼をベースにアミンの心の内を開放していく時、ふたりの間には唯一無二の居場所が出来上がっていました。

今まで根無し草としてしか生きる事が許されなかったアミンが大地に根を下ろすきっかけになった物語が、ここにあるのだと思います。

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