軆體を取り戻し 新しい縄文を生きる

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學ぶということは

知らなかったことを知ることで

知らなかったことを知るのですから

學ぶ前に「それを學ぶことで何が得られるか」

などということが判る由も無いのです

そうして

學ぶことで學ぶ前には思いも寄らなかった者になることを成長と言います

つまり

それを學んだ後どうなるということが明確なものは

學びたり得ないということですね

そこに成長は無い

勿論

目的に合わせて技術習得修行精進も必要ですが

それは學びの過程のごく一部でしかなく

それによって己の變革が無ければ

學びとは言えない

本來

學校で學ぶのは「學び方」であって

在りもしない「正解」では無いのですが

ビジネス化した教育では

それを購入することに依る利益が判らなければ賣れないのですから

当然「學び」の場では無くなります

「商い」というものは

作る者賣る者買う物使う者

すべてが益を受ける行爲で

適材適所に交換することが目的です

本來そこに「お客樣」という神樣は存在せず

すべて同列です

一方ビジネスは

"どれだけ廉く作り高く賣るか"

が命題で

どれだけ安いと思わせられるか

に重きが置かれます

賣る者の利益が最も重要視され

その次に買う者

そして使う者

作る者は最も低い位置に置かれます

「お客樣は神樣です」

ということはつまり

「こんなクソどうしようもないクズ商品でさえ買ってくれるあなたは神樣のようだ」

という意味です

電气ガス水道や公共交通など公共のものや

教育や医療はビジネスとは一線を畫すべきものですが

日本ではあらゆるものがビジネス化しています

株というものでも

元々はその會社を金銭面で応援することが目的で

その企業が成功すれば結果として株價が上がり

配當など見返りがある場合もある

というものであって

必ずしも株價が上がらなくても

応援できたという感慨

人の役に立てたという悦びはそこにあります

2本足で立ち上がった人はその構造上未熟な状態で子供を産まざるを得ません

獨りで移動することも何も出來ない存在が生きていくには

必ず他者の助けが必要です

つまり

人間は全て助け助けてもらうことで生きる生き物

人の悦びは

「己が成長することで誰かを助ける」處にしか無い

といっても過言では無いと思います

それが學びであり働きですね

まったく二宮金次郎ですね

米の値段が上がっているのは

少し以前からウイスキーの値段が上がっているのと似ていて

その價値を吊り上げている者がいる

日本人の勞働力は不當に低く抑えられていますので

廉價で品質の良い物を「作る者」としての地位を與えられています

コーヒーやカカオ、綿などの児童勞働や奴隷勞働

焼き畑や熱帯雨林の亂開發による砂漠化には目もくれず

生産者の口に入らず手元に殘らない

「安い輸入品」を喜んでいた私達が

今や"廉い勞働力"として使われ

土地を失い食を失い續けている

光熱費の値上がりも同根

因果が巡っているだけのことです

「國境なき醫師團」が予防接種をアフリカなどで行うことで

AIDSなど感染症が擴がり

彼者は「白い惡魔」と称されます

新型コロナでもまずワクチンの特許申請が先で

後から"感染症"自體も特許申請がなされている

その意味

さすがにアフリカで拒まれるようになった彼者が今目を向けているのが

亞細亞の東の外れにある島國

明治以來

食を軆體を歷史を信仰を捩じ曲げ續けてきた結果が今

顕れています

心を賣った者は滅びるのみ

私は御免蒙り

軆體を取り戻し新しい縄文を生きます

最後までお付き合いいただき

ありがとうございます

以下の有料部は

單なるご挨拶だけとなっています

もし良いなと思っていただけましたら

お气持ち頂戴いただけたら嬉しいなと

ライブなどの投げ錢みたいなものと

お气輕にお考えください

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