そもそも何で「痛み」なんていう感覚が存在しているのか?

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この世界に「善惡」というものはありません

もう

世界で"溫暖化"を問題視している人はいなくなってきていますが

日本ではしつこく溫暖化を問題視していますね

コロナワクチンも今頃まだ射ってるのなんて日本だけですよ

日本は初動が遅い割に終わりもダラダラと續く傾向がありますよね

日本人の气質は非常にAI的で

最適解が見つけられないと右往左往し

いざ

過去の最適解が見つかったらそれだけに固執する

そして

その枠から喰み出すことが出來ません

「溫暖化」と言いますが

あるのは气溫だけで

それが

高いか低いかは何かしらの基準に對する判斷ですね

さらに

それが良いか惡いかなんていうことは

人間の勝手な都合でしかありません

その都合も

多くの都合でも無く

ほんのひと握りの者達だけの都合を

さも人類の脅威かのように喧伝され

それを鵜呑みにしているだけ

かもしれないのです

今の二酸化炭素濃度と气溫の關係を恐竜時代に當て嵌めたら

何百度じゃないとおかしくなります

平安時代は今より1度

縄文期は今より2度高かったけれど

それを當たり前と生きていたのではないですか?

作物が採れないなどと

飢饉で困窮したのは寒冷化した時です

生き物にとって暑いより寒い方が厳しいのは

考える迄も無く

寒い地方の方々より

溫かい地域の方々の方が大らかなのは

生きやすいからですよね

溫暖化で果たして何が問題なのか

っていうのは私にはサッパリ解りません

さて

痛み」は無い方が良いのは間違いありませんが

では

痛みそのもの自体が無くなったら良いかと言うと

それは違いますよね

この世界に必要の無いものは存在し得ません

在るのならそこに必要が必ず有ります

「痛み」は

歪んでいたり働きが惡くなっていることを教えてくれる大事な信号です

ガラスの缺片を踏んで

痛みを感じず血が流れ放題になったら

失血死します

腰が痛い膝が痛い肩が痛いのは

無理な動かし方で負担を負いきれなくなったという信号ですから

同じ動かし方を續けていけば

本格的に壞れます

スポーツの世界で

「怪我の無いのが一流」

と言われるのは

つまり

本質的なからだの動かし方が良いか惡いか

ということを示しています

「痛い」のはそうなる原因があっての結果で

結果だけが見えなくなればそれで解決するのか?

っていう話もあります

患部を冷やす

鎮痛剤を服む

ブロック注射を射つ

確かに「痛み」だけに注目したら

これらは効果的かも知れませんが

しかし

溫かくなったら

藥効が切れたら

痛みがぶり返すのは

結局

何も解決に向かっていないからですね?

もっと言えば

「痛み」を感じていなかった間に

本當は無理な動きをして更に負担を與えていれば

状況はもっと惡くなりますから

「痛み」は增幅することになります

「痛み」があればそんな動きが出來ないのですから

少なくとも惡化することにはならなかったのに

ならどうすれば良いか?

「痛み」は敵なのか?味方なのか?

を考えてみましょう

「痛み」が惡いんですか?

「痛み」が出る樣な状態にしていったことが惡いんじゃ無いですか?

そして「痛み」を引き起こす原因を取り除けば

「痛み」が出る必要が無くなれば

本當の意味で「痛み」が無くなるのではないですか?

「痛み」を感じるのはどういう時か?





「痛み」は歪みや働きの惡くなったことへの信号であると同時に



修復が始まっている徴候です




どちらかと言うと



「ちょっと壞れてるんで治していきますから



 邪魔しないでくださいね」



っていうのが「痛み」です




「痛み」を感じることが出來るのは



痛覺神經の受容部分のみで



それは骨格筋つまりからだを動かす爲の筋肉にのみ在ります




内臟も腦も骨も神經も痛覺神經の受容部以外も凡て



「痛み」を感じることは出來ません




骨が折れると周辺の筋肉が歪むから痛みを感じ



内臟の働きが惡くなると下垂して筋肉が引っ張られるから痛みを感じるのです




痛覺の受容部以外の神經が切れようと折れようと



麻痺するだけで「痛み」は感じません


からだの中の太古の海の成分が當たり前に循環しているときというのは



筋肉がやわらかく擴縮しているので痛みはありません




筋肉が縮んだままで固まっている時は循環が行われないので



痛みは感じません




それが



何らかの拍子に筋肉が擴がれない処へ海が流れ込んでくるような時に



痛みは發せられるのです




炎症というのは



修復の爲に集まった海の成分が滿ちている処へ



更に波が押し寄せてくることで感じるものです




つまり



循環が滯っている部位に循環が生まれようとする時に



出る信号が「痛み」です




私共の仕術で皆樣が痛みを感じるのは滯っている部位に循環が生まれているからで



仕術後に痛みを感じないのは循環が定着するからです




正座で痺れた脚を伸ばすと



何も感じなかったのが触れないくらいの痛みが來て



そして元通りになるのと過程は同じです




そしてこの



触れないくらいに痛みが出ている時を



「症状」と呼んで「痛み」を感じない樣に



再び循環を滯らせているのが"治療"と言われるものです




そんな必要は無く



ただ一時の「痛み」を甘受すれば良いだけなのです




そして



「痛み」が制限を知らせてくれているのなら



「痛み」が出る動きは良くない動きで



「痛み」が出ない動きがからだに適った動きだと言えます




そういう意味でも



「痛み」は次に「痛み」を出さない樣にする爲の



指標になるのですね




「痛み」が有る時こそ



自分のからだと向き合うことで



どんどん「痛み」の出にくいからだになっていけるのです




それが自覺出來れば



私共のような者は必要無いですよね




そういう世の中を望む者に出逢えれば



あなたは必ず治ります






「痛み」と上手に付き合っていきましょう



などと言う"治療院"は「痛み」で商賣をしています




ですから



商品である「痛み」が枯渇しない樣に气を配り



さらに何度でも繰り返し訪れる樣に



"患者"を依存させていきます




からだは良くなろう治ろうとしかしていません




しかし



この「痛み」の本質を理解していなければ



あなたは壹生涯「痛み」から逃れられないように絡め取られていくのです


最後までお付き合いいただき
ありがとうございます
以下の有料部は
單なるご挨拶だけとなっています
もし良いなと思っていただけましたら
お气持ち頂戴いただけたら嬉しいなと
ライブなどの投げ錢みたいなものと
お气輕にお考えください

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197文字

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