フジサキの自己紹介

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こんにちは、フジサキ fka ばばしょいと申します。初めましての方もそうでない方も、どうぞよろしくお願いいたします。

てつさんが「むずないの母」なら、私は「船団員の母」と言っても過言ではないポジションです。長いこと、自分は船団員の中で女子最年長だろうと思っていたのですが、昨年あたりからそうではなさそうなことに薄っすら気が付きまして。仲間の存在、心強いです。

そして今までの人生ですが、やってきたことがバランバランなので、うまくまとめ上げる自信がありません。が、とりあえずダイジェストでお話ししてみようと思います。

小学生の頃は、本を読むことと文章を書くことが大好きな少女でした。原稿用紙の束を詰め込んだカバンをいつもかたわらに置いて、暇があれば空想の物語を書き綴っていました。
その頃、サンタクロースが英文タイプライター(昔ながらの、カチャカチャカチャ、チーンってやつです)という謎チョイスのクリスマスプレゼントを持ってきたので、小4でブラインドタッチが完璧という謎特技を身につけました。

親に「アメリカンスクールに転校したい」といって、あっさり断られたのもこの頃。
「奥さまは魔女」や「パートリッジ・ファミリー」など、アメリカのホームコメディを観て育ったり、リカちゃんを欲しがった私に親が買ってくれたのはセクシーなバービー人形だったりで(父曰く「間違えた」とのこと)、少女の頭の中が「ここよりずっと明るくハッピーで豊かなアメリカ」に占領されていったのは当然の成り行きでした。

憧れのアメリカへの脱出計画が実現したのは20歳の時でした。当時、やりたいことが見つからず、バイトしながら将来への期待と不安を漠然と抱えながら生活していた私に、高校時代に隣の席に座っていた男の子から「今、NYにいます」というハガキが届いたのです。「や、コイツが行けるなら、私も行けるだろう」とすぐさまNY行きを決意。そこから3ヶ月必死にバイトしたお金+自分の車を売ったお金の全財産を持ち、親には「3ヶ月間ワシントンDCの英語学校で勉強してきます」と噓をついて、まっすぐNYへと飛び立ちました。

NYでは、空港から宿までの車の中から普通に街を歩くオノヨーコを目撃したり、日本では見たこともない長いリムジンから空を飛べるんじゃないかというくらいたくさんのバルーンを持って降りてくる美女を見かけたりなど、しょっぱなから映画のワンシーンのような光景の連続でした。
夜、初めて行ったタイムズスクエアは、東京で生まれ育った私もびっくりするくらい、昼間かと思うほど明るくて人がたくさんいて、圧倒されました。そこでひときわ人垣ができているところがあったので、「何、何?!」と近寄ってみると、輪の真ん中ではヒールを入れて2メートルはあろうかというドラッグクイーンが2人、角材のようなものを振り回して大喧嘩をしていました。

翌日、親に「今、NYにいます。とても楽しいので、しばらくこちらにいることにします」と手紙を書き、以降親元には二度と帰りませんでした。

20歳の全財産なんてたかがしれているので、2か月目あたりで所持金が心許なくなっていった気がします。最初に見つけた仕事は、ミッドタウンにある本屋のキャッシャーでした。英語もろくに話せない、マンハッタンの右も左もよくわかっていない女の子を雇ってくれるというあたり、NYの懐はとても深かったです。

アルバイトは、お決まりのジャパニーズレストランのウエイトレスやお金持ちの家のベビーシッター、カイロプラクティックの受付など色んなことをやりました。お金に余裕がある時は大学のクラスを取って、なければ働くという感じで、20代の半ばくらいまで過ごしました。ジャンルを問わず、ライブにもたくさん行きました。日本では雲の上の存在のようなミュージシャンが小さなクラブで演奏していたりして、運が良ければそのままそこのバーで飲んでいるところを見つけてお話しすることができるなんていうのは、NYならではの醍醐味でした。

NY時代は私の人生における夏休みのようなものだったと思います。夏休みは、どう過ごすかによってその後に大きく差が出ますが、私はまんまと丸々遊びほうけて過ごしました。

そこからなぜ日本に帰って来たかと言うと、アメリカ人特有の「本音と建前」、日常的に繰り返される大なり小なりの人種差別に疲れてきて、このままではアメリカ人が大嫌いになると思い、英語圏のどこか他の国へ引っ越そうと思ったからです。
その前に一旦日本に帰国したところ、うっかりそこで結婚をしてしまい、意図せずまた日本で暮らすことになりました。

それからほどなく男の子2人の母親になるという、私にとって人生最大の出来事が起こりました。

結婚した相手が旅好きだったこともあり、子供が幼稚園に行きだす前は、アジアを中心に家族であちこちバックパッカーもどきの旅行をしました。なぜ「もどき」かというと、幼児を連れていたので最低限の清潔さと安全を確保しなければならず、それほど本格的な安宿には泊まらなかったからです。

それぞれの土地に思い出はありますが、私の中で一番インパクトがあったのはネパールです。それまで行きたいところと言えば南の島や海の綺麗なところ一辺倒だったのですが、ポカラという街で1か月、ヒマラヤの山々を目の前に過ごしたら、「山には神様がいる!」とすっかり魅了されました。そこでこれまで持っていた価値観が一変したのですが、そのことを書きだしたらそれだけで本が1冊できてしまうのでないかと思われるので、ここでは割愛いたします。

この後、私の人生の暗黒&空白時代に突入するのですが、残念ながらその内容を詳しくお伝えすることができません。なぜなら、その部分、ホントに記憶が曖昧だからです。

子供らが小学生の時、母親だけでなく父親の役目も1人で担わなければならないという状況が突然やってきて、人生最大の出来事があっさりアップデートされました。

不定期に入るライター&構成作家のギャラと、週何日か行っていたパート代とで月の平均が10万円にも満たない中、住んでいるのは家賃と駐車場代合わせて15万の部屋という状態。引っ越さなくちゃいけないけど、その引っ越し代すら捻出する術がなく、「八方ふさがりってこういうことかぁ」とぼんやり放心したのを覚えています。

そこからどうサバイブしたのか、自分の中で記憶に全部モヤがかかったような感じですが、ひとつ言えるのは「何がどうなっても何とかなる」ということです。
今では息子たちは2人とも大学を卒業し、私もFXでまだ突き抜けられないということを除けば、日々、至極ハッピーに暮らしています。自分でも不思議に思いますが、人は心底辛いと感じたことの記憶はあまり残らないようです。中途半端に辛かったことは、時々思い出して嫌な気持に襲われたりするのかもしれませんが、生きるか死ぬかくらい辛い思いについては大丈夫。乗り越えた暁には脳からすっぽり記憶が抜け落ちて、そのことをまたリアル思い出すことはありません。少なくとも、私の場合はそうでした。

そして再び自分の人生に目を向ける余裕を取り戻してきた2021年、FXと出会います。時間給の仕事ではあまり稼げない、フリーランスのライターの仕事は稼げるけど仕事があるかないかは相手次第という状況の中、FXというものを発見すれば、あとの展開は皆さんお察しの通りです。

FXを知って割とすぐにスケーターさんのメルマガを発見したので、私のFX歴と船団員歴はほぼほぼ一緒になります。

メルマガに登録して以来、今まで生きてきた中で一番といっても過言ではないほど勉強(?)してきました。それを息子に言ったら「あなたの今までの人生って…」って呆れられましたけど、事実なので仕方ありません。
人より進化のスピードが遅くてなかなか結果を出せませんが、姿勢だけはずっと前のめりをキープしているつもりです。

来年からは球体組織の一員として、全の勝ちを目指し、皆さんとともに進軍できることがとても楽しみです。至らないところもまだまだ多い私ですが、どこかで見かけた際には声を掛けて頂ければ嬉しく思います。

ではでは、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。















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