すべてひとりで出來るんなら人間なんて壹人で充分だってことですよね

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個性が大事という風潮がありましたね

最近はあまり聞かれなくなったようですが

どうなんでしょう?

日本の教育はどうも平均を目指しがちで

良く出來る者を見ず

成績の惡いものに注力しがちです

“義務教育”という言葉の意味が勘違いされてしまっているのかもしれません

義務教育というのは子供には等しく教育を受ける權利があり

周りの大人は子供に教育を受ける機會を與えなければならないという

ここが義務ですね

ということは機會を與えることまでが義務で

子供がその機會をどう使おうとそれは子供の權利になります

つまり“義務教育”の本義からしても

子供は自分が學びたいことを學べば良く

ワケの解らない樂しくも無いことを學ぶ必要は無いのですね

ところが“義務教育”だから最低限これだけは皆が等しく修學しなければならない

と考えている向きがあります

そうするとどうしても成績の惡い者に注意が向きがちになります

これは成績の惡い者にとっては苦痛ですし

成績の良い者も面白くありませんね

學びというのはそれを學ぶことによって自分が變化するのが悦びなのであって

求めていない變化をすることが嬉しいワケが無く

變化する機會を奪われて樂しいハズが無いのですよ

これは結局どちらの成長も止めることになります

人は生まれようとして生まれてきたのでは無いので

本來生きる意味など解らないのが當たり前で

それでもいつか

生きる目標というようなものを設定します

そうでないと苦しいからですが

子供の内は親や大人に言われた言葉によって

無意識に設定が組み込まれていきます

それが

だらしないとか

何で出來ないの

頭が惡いんだから

といった劣等感を與える聲かけをされると

スンナリ受け入れられ

そういう設定で生きることになります

孫の面倒を見るのが苦手なお祖母ちゃんお祖父ちゃんの方が孫と接するのが好きなのだそうそれでも日中家に居るのはお祖母ちゃんの方なので何かと近所に...
【からはだふくらか】に見える
もうお父さんですが
母親から與えられ續けた劣等感が拭えずに
他者の目他人の評価でしか判斷出來ず
自分で決めたことをとにかく後悔し續ける
そんな方があります

色々言葉を掛けるんですが
親の呪縛は強く
なかなか變わっていく勇気を持てないでいます


科目なんて9個も10個もあって
その中に得意不得意があって當たり前で
得意なこと好きなことやりたいことを學んでいく中に
次々關連して他も學ばなければならない時が訪れます

その時になってからで拾分で
逆に言えばそういう必要がやる气を生み
軆になっていくのです

全部出來る必要なんて無いですよね?

全部出來る人なんていないでしょ?

全部出來るんだったら人は壹人で拾分だってことになるんですから

こんなにたくさん人がいるってことは
それぞれがそれぞれの出來ること
やりたいことをやる爲
それ以外に何の理由があるでしょう

さて
そうして見ると
個性を伸ばすということは
やりたいことやりたいときやりたいようにやらせる
爲の環境作りだということが判ります

他者の評価なぞ气にも掛けずに
自分の出來ることやりたいことに注力できる

自分の足で立ち上がる人間を育てることこそが本當の體育です
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