子供を成長させる聲かけ 子供を地獄に落とす聲かけ

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孫の面倒を見るのが苦手なお祖母ちゃん

お祖父ちゃんの方が孫と接するのが好きなのだそう

それでも日中家に居るのはお祖母ちゃんの方なので

何かと近所に住む息子の子供の面倒を見ることが多いそうで

それでも日々の成長に驚きつつ

お祖父ちゃんが歯が痛い時に

下の子はお構いなしにお祖父ちゃんと遊びたがるのに

上の4歳の子はお祖父ちゃんを气遣ってくれると

ちょうどそれくらいから自分=世界から

自分⊆世界という認識になってきますからね

ここから人間世界が始まります

その中で

子育てというのは

安全無事に死なないで大人にさせることでは無く

成長させることです

親の役目はその成長の目を摘まないよう促すこと

それはつまりやりたいことを出來るだけやらせるということです

成長の目を摘むのは結果を褒める言葉です

結果を褒めると良い結果を出すことに焦点が向いてしまいますので

他人軸になってしまいます

他者の顔色を伺うようになり

他人を蹴落とすことが正當化されます

これは現在行われている偏差値教育そのものですけどね

本來は本人がどこまで成長出來たかだけが問題であって

成長を他人と比較しても意味は無い筈で

逆に言えばどんなに成長出來ていてもランク付けが行われる以上評価が低くなりかねない

偏差値教育は周りのレベルが下がるほどに上位に行きやすくなりますから

互いに脚を引っ張り合い

どんどんレベルが下がっていくことになります

自分に軸があれば習熟度達成度が低くても

それは確認作業に過ぎませんが

他者に評価を委ねているとそれらが卽評価になるのですから

苦しくなります

好きでやりたくてやっているものが

例えどれだけ突き詰めていけたとしても

他人からどれだけ評価されようと

本人にとってそんなことはどうでも良いことになりますが

他人軸の場合

たとえトップに上がり切れたとしても

いつ評価が下がるかという恐怖と闘わなければならなくなります

資本主義社会の實力主義というのは結局

他人評価の枠組みなので

ごく少數の勝ち組しか生まれませんし

その勝ち組も安閑とする暇も無く

働き續けなければならないということになります

社會の仕組みがそうだからといって

その中では幸せにはなれません

結局は自分軸を持って自分の評価で生きている人の方が他者評価も高くなりやすいですし

何より人生の滿足度が段違いです

だからこそ他者評価に陥らない言葉掛けが大切なのですが

往々にしてその言葉掛けは惡い方に使いがちです

褒める時は結果を褒め

諫める時はその气質に向かいます

气質を言語化されると「だらしないんだ」「頭が器量が惡いんだ」と

自分がダメダメ人間なんだと入力され固定されます

この方は自分の親がそういう親だったと

だから大嫌いだったのに父親が亡くなった時

喪失感が物凄かったのは

父親の評価が多くを占めていたからですね

親が子供が死ぬ迄責任を取れるんなら

他人軸他者評価で育てても構わないかもしれませんが

それはまず不可能なので

そうすると途中で子供を投げ出すことになりますから無責任極まりないという話になります

いい大人になってから放り出された方も修正も難しく

どうして良いか判らなくなってしまいます

本當に子供のことを考えるのなら

自分の価値観を押し付けるのでは無く

自軆で考え行動していけるように

見守ることこそが親の役目なんです

難しいことではありません

上手下手は関係無く

「○○が好きなんだね」

これだけで良いのです

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