囲碁部

部長:
世継囲平
最終更新日: 2023-03-18 17:33:15
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おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

これは、幕末の世を生きた高杉晋作の言葉です。

彼の人柄とやらかした事を知っている人からすると、少し、意外に感じる言葉かもしれません。

それどころか、前半部分だけを記憶して、

「落ち目の封建社会の江戸時代をぶっ壊して、俺が面白おかしい時代を作ってやるぜぇ、∠(゚Д゚)/イェーイ」

みたいなイメージを持っている人すら、一定数、いるとされるくらい。

ところが、最後の最後、辞世の句として残したのがこの言葉であり、彼の根本の思想が滲み出てる感じがします。

ただ、似たような言葉であっても『住めば都』という受動的な考えとは、全然、違うと思うんですよね。


囲碁をほとんど知らない人であっても、ヒカルの碁を読んだことがあれば、囲碁が陣取り合戦とされている事くらいは、ご存じのはずです。

一手ずつ順番に打つ制限がある、相手の人権を認め、保証する制度の元に行うゲームであるからこそ、互いの力関係が近くなり、相手の息遣いが聞こえてくるような距離で顔を突き合わせるような局面も増え、その結果、考えが違う者同士での意見のすれ違いや誤解などが生じるようになる。

自分が争いを避けて穏やかな心でいればいいってものではないという事を囲碁は教えてくれますし、完成された封建社会の末期を生きた方々は、その辺りの事を今の世の日本人よりも肌感覚で理解していたのではないないでしょうか?

ということで、はじめましての方ははじめまして。

囲碁部の世継です。


僕がこの部活を通じて提供するものは、

『意味があるのか無いのか分からない世界で、世界に意味を持たせる習慣や工夫』

です。

といっても、冒頭でも示したように、これは、自分の力で世界を変えてやろうぜ、みたいな話とは微妙に意味合いが違います。

もちろん、結果的に、そうなるという事はあるでしょうし、それを目指さないわけでもないんですが、主目的はそこには無い。


その理由は、失われた30年とか言われてる平成以降の日本を見れば、自ずと分かる事です。

政治を始めとして、あらゆる業界が停滞し、科学技術は大きく発展したものの、映画ターミネーターがブームになっていた頃に多くの人が思い浮かべていたような未来社会が訪れたわけでもない。

前に進んでいる部分はあるものの、後退しているような部分も多くあり、それが社会問題として表面化、トータルで見ればマイナスにしか思えない、元気がない社会。

「元気があれば何でも出来る。」

とはいうものの、コロナ騒動の二次被害みたいなのを見ても感じるように、癒し系の仕事に就くような人が増えたところで、やはり、根本の部分が変わらない限り、人手は限られている以上、イタチごっこが続くばかりで、いつまで経っても世の中がよくなるような兆しも無い。

そして、尚、質が悪い事に、そんな空気に負けじと立ち上がる『強い男性』も、多少は存在しているものの、多くの場合、そういう人は自分や周囲に闘魂注入して闘う力を得るために、無自覚的に、

「自分は自分、他人は他人。」

と言い聞かせて、前に進もうとしがちです。

そういうやり方で自分を奮い立たせている以上、本人にその気がなくとも、自己責任論により弱者に圧をかけることになるし、他人の期待に応えようと無理をし続けて、心をすり減らす事になる。

若者の自殺率が高い日本を形作るのに一役かってしまってるわけです。

要するに、これらの問題を一言でまとめてしまうと、

「日本社会や世界に大きな意味や意義を感じれなくなったもんだから、その代わりとして、自分自身が意味のある人間になろうと自我が肥大化して余計に苦しんでいる。」

という構図になります。

公務員みたいな安定した未来(小さな地域社会などで認められていて意味のある仕事)を選択してしまう、現実世界を捨てて宗教や二次元の世界などに嵌ってしまうというのも、規模が違うだけで同じことです。

放っておいても、勝手に世界が発展しているように感じられる時代や社会状況なら、まだしも、今のような時節で、意味のある事をすることで社会を変えようとしている限り、どうやっても、このジレンマからは抜け出せないのではないかと、僕は考えているんですね。




とするなら、その解決策は一つです。

そもそも、世の中を変えようとする、変わるんじゃないかと一縷の望みを安易に凡人が抱いてしまうことが、悲劇の始まりなんですから、絶対に変わる事が無い、人間の存在が小さすぎて感じられない(人間が主役になれない気がする。)、人間の目から見て無色透明にしか見えないような世界を舞台に活動する、これが、まずもって、目をつけるべき部分ではないでしょうか?

宗教なんかも、ある意味では、それをやろうとしているのでしょうし、それを教える側の人達の中には、そういう境地に達している人も少なく無いのかもしれませんが、肝心要である教わる側の一般人の方が現実世界に引っ張られてしまっているために、宗教の教えの内の幾つかも、現実的な問題に対して解答するような形になってしまって、『意味』を求めて瓦解してるのが現状なように見えます。

エネルゲイアで、各自が、部活動という形で趣味を極めようとしているのも、このような背景があるからで、これこそが時代に求められてると僕も思うんですね。

それで、そのような観点から囲碁と言うゲームを評価すると、

・将棋と違い社会的な役割がはなから定義されてるわけでは無い

・目的自体も曖昧(自分を守るために戦い、領土を広げたり奪ったりする展開にもなる。)

・囲碁が強くなったからといって、それだけでは大して自慢にもならない(あくまでも対局相手がいてこそドラマ=変化、局面の転換が起こり、そこに価値が生まれる。)

と、今現在、囲碁に興味ない人には何の意味も感じられないということで、逆に大きな可能性を感じることが出来ます。

ここまで人間性が感じられない地味なものは少ない。



ただ、それでもというか、やはり、最終的には取り組む人次第で価値は大きく変わります。

料理なんかも、ちょっとした違いから大きな差が生まれるように、自分が主役ではない、如何に引き立て役に回るかという分野こそ、(現代を生きる多くの)人間にとっては難しかったりする。

囲碁も将棋も、人間がやるからこその価値があると言われて久しいですし、それらの舞台を現実の社会と重ね合わせてビジネスに役立てようとする風潮は、昔から、あるのですが、そもそも、全ての人が成人した時点で同じスタートラインに立ってるわけでは無い以上、囲碁や将棋のプロと同じやり方を真似たところで意味は無いんですよね。



またまた、江戸時代の書から拝借しますが、

武士道とは死ぬ事と見つけたり。

という言葉があります。


この言葉は、今現在、

「死ぬことを恐れずに、目的を達成するために命を賭けろ!」

という意味で解釈されて根性論に使われたりしてるようですし、太平洋戦争の末期にも利用されていたようですが、本来は、そのように、「自分の努力で世界を変えてやろう。」なんていう意味での使われ方はされていませんでした。

都市部にいるエリートの武士達の間でのみ伝聞され、彼らが人生の荒波の中でも、自己を律して、自分を見失わずに、その時、その時にやるべきことを見極めて、それを淡々と行えるような人間であるために、毎夜毎朝、常にいつ死んでもいいようにという心構えのために使われていました。

現代で言うと、安倍元総理みたいなサラブレッドにしか、そのまま適用するのは難しい帝王学みたいなものです。

生まれた頃から生き方が決められてるわけではない、生きる道、つまりは、どういう文脈、関係性の中で価値を自然と生み出していくかを見つけるところからスタートしないといけない庶民が使おうとしたところで、かえって逆効果なんですよね。

がっちがちに関係性が定義されてる政治家とは話が違う。

囲碁に当て嵌めると、子供の頃には今の大半のアマチュア以上の腕前を持っていた、基本が身についているプロ、その彼らと僕らが同じことを表現しようとしたところでギリギリの互角の戦いになんてならないし、中学生のヘロヘロヤンキー同士が決闘をやらかして、警察のお世話になっているのをご近所さんに目撃されるのが関の山なんですね。

こんな事が、実際にたくさん起きているのが今の囲碁界(主にネット碁)であり、仮に、藤井聡太くんみたいな人が出てきて、それに憧れて囲碁を始めた所で、理想と現実の乖離に絶望して、囲碁を嫌いになったまま、やめてしまうのが目に見えているんです。

こんな事なら、囲碁よりも他の事をやった方が、健全な関係性も育くまれるだろうと思うのも無理ない。

というか、そういうことが、ヒカ碁ブーム以降の10年くらいで、散々、ありましたし、僕も目にしてきました。

かといって、いまさら、囲碁を一部の人のみの間で行うゲームとするのは無理がありますし、老人がどんどん増えては減ってる今の社会では、囲碁界も未熟な若者を相手にしないと先はありません。

いや、囲碁界だけでなく、他の多くの業界でも同じで、若者をお客さん扱いしてちやほやするものの、その実態は、高齢者の負担を背負わせるような構図になってしまってるんだと思います。

ということで、プロが教えてるやり方とは違う、僕のような大人になってから囲碁を始めた、人間としても半人前な存在であっても、

『相手との関係性のみで価値(つまりは多様な変化)を生み出すことで、囲碁の奥深さを表現する。』

技術論、勉強方法は必要だと僕は考えています。

もっとも、僕は、最初から、ここまでで話してきたような高尚な考えで囲碁をやってきたわけではなく、ただ、細かい違和感から、自分の納得する打ち方を追及した結果、そのような、再現性が高く、勉強が好きじゃない人でも覚えれる打ち方を考案したわけですが、囲碁を通じて、他のエネルゲイアの部活動、部員の方々に役立てるように、この度、改めて、囲碁部を起ち上げる事にしました。

僕が考えた一工夫自体は、本当に単純明快で、料理で言うなら、全ての味を調える一つまみの魔法の調味料みたいなものですので、これまで、普通に囲碁を勉強してきた人であっても、後から付け加えるのは、そこまで難しくもないですし、今から囲碁を始める人にとっても、全然、負担にはならない事をお約束します。

ただし、簡単であるからこそ、実戦を通じて慣れていく必要があるため、一日15分でいいので、まとまった時間が取れるにこしたことはありません。

現在は、僕のやり方で囲碁を教えれる人が他にいないんで、僕が、直接、指導する形になります。

また、必要に応じて、どこの図書館でも普通に置いてある本でも知れる知識や技術などについても紹介はするので、まだまだ影響のあるコロナで、勉強のために図書館などに行くことは気が進まないという人でも大丈夫です。

他、気になる事があれば、後から聞いてください。

それと、僕自身のことについては、noteもやってるんで、気になる人は、そっちを覗いてください。

新しいスタイルで生きられる人を増やすためにも、囲碁部をよろしくお願いします。

おわり









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