枯山水

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「枯山水」は水を無化する事によって石と砂だらけの庭に豊かな水流を見せます。禅は自己を単位としながらそれを無くす「無我」(無化)として突き抜けるもの。自己を高める為に戻るのではなく、自分を捨てる事によって一度 自分という単位に戻ってみようとするもの。例えば、ここに「茶碗」があります。この茶碗を最初から無いものと考えるのは難しい。そもそも茶碗とは何か?を徹底的に考えてみます。(抽象化) お茶を入れるものか?病人の命水も入るかもしれない。いやいや、紙が風に飛ばされない為に重石にもなる、という風にどんどん考えて行く事によって、表面的な「意味」を捨てて行きます。「不立文字」(ふりゅうもんじ)とは、文字に「意味」を託さないこと。「言語道断」とは、一度文字になったものを断ち切ること。いきなり全部を捨てるのではなく、考えながら「捨てていく」。「茶碗」というものを、10回、20回と、どんどん言い換えて、言葉を使いながら、「捨てていく」。玉ねぎの皮を剥く様に。心の鎧を脱ぐ様に。それが禅の手法。松岡正剛氏/編集工学研究所長

「茶碗とは何か?」 「自分とは誰か?」「時間とは何か?」「現実とは何か?」()


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