悟りの構造。

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「大いなる存在」=「本当の自分」人間の最も深い所に存在している。人は、それに「繋がる」ことが出来ます。ただし、このことは「頭」(脳)を使って考えて出来ることではありません。「頭」で理解できることには限りがあります。あなたが、「いまに在る」時、「大いなる存在」を感じることが出来ます。「大いなる存在が、自分と共に在る」という感覚を保ち続けることが、「悟り」です。「大いなる存在」こそが「人間の本質」です。「私は“いまここ”にこうして存在する」という感覚がそれです。この真実に気付けないのは、自分の「思考」を自分だと思い込んでいるからです。絶え間ない思考の騒音(思考の暴走)が、「大いなる存在」に混入して、心の平安・至福の境地に到達するのを妨げています。思考の暴走による弊害は、「不安や苦しみ」(自我)をねつ造します。哲学者デカルトの「われ思う、故に我あり」は、「私は在る」ということ(be)を「私は考える」(do)ということがイコールであるという初歩的な過ちを犯しています。自分の思考を制御できない人は、「人間はみんな個々に独立している」と信じて生きています。これを信じている人の人生には、この信念が反映されて問題と摩擦が次々にやって来ます。「悟り」とは、「全てがひとつであり完全である」梵我一如の境地です。それ故に、「全てと繋がっている」こと。平和・安堵・至福に包まれています。目に見える、「形ある世界」はもちろん、自分の内にある目には見えない「大いなる存在」と「ひとつ」になっていることです。「悟り」を拓くと、もう自分の思考に振り回されなくなります。何故なら、思考の外側だからです。「思考」=「自分」とみなしていると、レッテル、決めつけなどの「曇りガラス」を通して世界を眺めます。すると、全ての物が、ゆがんで見える為、万物と真の関係が築けなくなってしまいます。この「曇りガラス」こそが、「分離意識」(自我)という幻想(仮想現実)を生んでいます。


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