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稲の植付け苗數を決定する場合、農民が、
「壹平方メートル當たり苗をいく本植えたら良いか」
と質問すれば、農学者は次のようなことを言うだろう。
収益逓減法によって、苗數をある程度以上植えても収量はあがらない。
苗の成育、分蘖數には相補相殺性が働くから、あまり多くも少なくもならず、ある範囲内にバランスを保って落ち着くだろう。
苗數が少なくてそれが収量を決定する制限因子になることもあれば、多すぎることが収量を落とす要員になることもある。
等々と説明するのである。
だが、このとき農民は、おそらく
「では、私はどうすちゃいいのだ」
と言わざるを得ないであろう。
苗數壹つをとりあげてみても、多いがよいか少ないがよいか、時と場合で異なってくるから、どうにもならぬことである。
とわかっていて、こんなことが果てしなく研究され議論されてきたのである。
『無Ⅲ』
科學が研究してきたことは競馬でどの馬が壹等になるか
競輪や競艇で誰が速いのか研究して分析しているようなもの
ということですね
事前にどれだけ詳細にデータを解析したところで當日のデータが無ければ意味は無いし
どれだけ詳細に集めたデータでもそれがその者凡てを表す事にはなり得ない
自然の中の理法を、解體して得たこまぎれの部品=諸法則をいくら寄せ集めても、元の理法にはならない。
その諸法則からうかがわれる自然は、元の自然とは似ても似つかないのは當然である。
結局壹等の當たり券を科學的分析で購入することは叶わないということです
科学農法の諸法則は現状究明には役立っても、現況を超えた栽培技術には當てはまらない。
その法則は稲の積極的な增収、すなわち現況打破の多収積には役立たず、たんに減損防止に役立つにとどまっている。
より確實に判っていることは始まったら終わるということであり
誰かが壹等になり誰かはビリになるということくらい
しかもそれも確定ではありません
人類の歷史は何百萬年とあり
縄文時代でも壹萬年の長さを持ち
稲作が始まって四千年
科學は高々300年も遡れません
自然もからだも得たもので無く
初めから在るものです
説明書も無いのですから容易に理解できる筈も無く
説明書があったところで解讀し終わるのにどれだけかかるか判りませんが
しかし壹方で私たち自軆が自然の壹部なのですから
理解出來ない筈も無いのです
ただ人間はその理解方を勘違いしてきただけで
そう考えると佛教という教えは核心に最も近付いているように思えます
大事なのはありのままを感じることでそうして初めて人間の腦と本能とが噛み合い
本來の人間の力が發揮できるのです