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「赤ん坊」には「私」という存在意識は在りません。ただ、しばらくすると「私」という感覚(分離意識)が生まれます。自分がそこに「存在」しているという感覚が出て来ます。私という存在、主体と客体の世界が現れます。そこでは「時間」が生まれ、私と私以外の分離が生まれ、生きている。自分で何かをやっている、何かを経験をしている。何かを選択しているという感覚が真実になり、そして時間の中を何かに向かって懸命に生きて行きます。私(我)が生まれた瞬間に、自分の外側では全てがバラバラに分離して見えて来ます。そして意識・無意識の内に「何か足りない」不足感・欠乏感が芽生えます。何か未完成で不十分です。次の瞬間には何かもっと良い物が在るという感覚がどんどん真実になって行きます。そしてそれらの欠乏感を穴埋めする為に、今「無い」何かを求めます。お金や、物や事を求めます。懸命になって手に入れて行きます。(足し算)
ただ、手に入れた瞬間に、その事から願望・欲求は消え、また次の新たな何かを求めます。また日常の雑多な出来事にも満足を得ようとします。つまり、私(自我)は、常に、今に無い「何か」を追い求め続ける存在です。つまり、「私=永遠の探究(未完)」です。この不足感=未完成感は変わりません。どんなに探究してもどんなに手に入れても、どんなに夢を叶えても、問題を解決しても、そこには「真実」はありません。真実は、「諸行無常」(砂時計)縦軸です。つまり、全ての「探究」は不可能です。完全に絶望的です。永遠の「探究」の終わりです。そして、私は、「私の不在」を求めます。これが、「サレンダー」です。これが、「覚醒」です。