故事「万事塞翁が馬」の真の深い意味。

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”人間万事塞翁が馬”という故事があります。老人の息子が落馬して骨折しました。近所の人達が可哀そうに思って、慰めに行くと、老人は平然として言いました。「この事が幸運だとも限らないよ!」1年が経った頃、胡の異民族が、城塞に襲撃して来ました。城塞近くの若者は全て戦場に行き、その多くは戦死しました。しかし老人の息子は、足を骨折していたので、戦いに行かずに済み無事でした。この老人の様に肚が座っている人はあまり悩みません。淡々としています。来るものは拒まずです(軽い選択)。「どう在るか」という「在り方」の覚悟がないと、自分が意図している世界ではなく、眼前の意識を向けないでいいところにエネルギーを注ぎ振り回されます。どう在るか?在り方を決める→決めた事がやって来る。(未来起点)

→すべてが必然。(言い訳が無い)→「落馬&骨折」→(機会だ)と捉える。(いい/悪いの判断・分別=思考は自我) 一方、<どうするか?>の場合は、→(在り方)が無い(無様)→何かが起こる(無様な反応)→落馬&骨折=失敗、挫折と捉える。全てが偶然で、言い訳&他責になる。ネガティブな感情は、出てきたら拒まず「受け入れ・受容」するだけです。ああ、こんな風に感じてるなァーと認めて受け入れて行くだけ。なんとかしよう!どうにかしよう!どうしたらいい?と(外側)に悩まない事です。そこで悩むと、あなたの意識(エネルギー)が、そちら(外側)にフォーカスされて、その様な「負の現実」が現れます。これが、「負」の現実化の仕組み・原理です。ネガティブ感情や、マイナスな思考は、どうしても出て来ます。

ただ、受け入れ、承認して受容する。この繰り返しです。(あるがまま)を受け入れて、自分を整える。故事「万事塞翁が馬」の深い意味は、「現実創造」の仕組みとメカニズムを教えています。(般若心経)です。「私たちが、解釈を加えるまで、宇宙に起こる全ての出来事は、ニュートラルです。」言い換えると、物事は、「善」だけ、「光」だけ、「喜び」だけ、といった1つの面だけで存在する事はなく、「善」には「悪」、「光」には「影」、「喜び」には「悲しみ」、といった「二極性」を持ちます。私たちは、物事を認識すると、意識的、無意識的に、「ジャッジ」して、(良いor悪い)レッテルを貼り付けます。実際、あなたも、過去の出来事について、「良かった楽しい物」「悪い嫌な事」として記憶しています。未来については、良いこと、肯定的なこと、だけを体験したいと願います。これが、自我の「ねつ造」。=「苦悩の源」です。

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